サレジオ会はなぜ今の活動をしているのか

世界のサレジオ会

なぜ? その動機は何か
「サレジオ会はなぜ今の活動をしているのか」という問いは、サレジオ会の召命の核心に触れるものです。それはまず事業や施設、活動(オラトリオ、学校、職業訓練センター、大学、小教区、社会事業など)に関わるのではなく、それらを生み出す内なる根に関わります。サレジオ会員が今の活動をしている理由は、組織的なものである以前に神学的なものです。それは神の体験と、教会からの招きから生まれています。

1. 先立って与えられる神の愛を信じているから
その原点には、神がすべての人を、特に青少年を愛しておられるという確信があります。サレジオ会の召命はこの確信の上に成り立っています。一人ひとりの少年は、しばしば隠れており、時には傷ついていても、確かに善の計画を担っているのです。こうして教育は、恵みの働きへの協力となります。
Don Bosco のモットー「Da mihi animas, cetera tolle」(われに魂を与えよ、他は取り去りたまえ)は、この教育への情熱を表しています。それは社会的な行動主義ではなく、人の全人的な救いへの献身です。サレジオ会員が教育の分野で働くのは、教育の中に、成長と全人的な人間形成のための特別な場を見いだしているからです。

2. 青少年、特に最も貧しい青少年のもとへ遣わされていると感じているから
サレジオ会の「なぜ」は、福音的な優先と密接に結びついています。その使命は漠然としたものではありません。青少年に向けられ、とりわけ物質的、文化的、霊的な貧しさの中に生きる若者たちに特別な配慮を払うものです。この選択は社会学的な戦略からではなく、現実を福音的に読み解くことから生まれています。
貧しい青少年は対処すべき問題ではなく、神学的な場です。彼らのうちに、キリストの呼びかけが特別な仕方で現れます。だからこそサレジオ会員は、実存的な周縁に身を置き、少年たちの日々の生活を分かち合い、彼らが受け入れられ大切にされていると感じられる教育の場を提供することを選ぶのです。

3. 変革の道としての教育を信じているから
教育という選択は中立的なものではありません。それは明確な人間観を含んでいます。人間は成長し、責任を担い、超越に心を開くことができるという人間観です。理性、宗教、慈愛に基づいて Don Bosco が練り上げた予防教育法は、この人間観を実践に移すものです。
サレジオ会員が今の活動をしているのは、予防が抑圧よりも効果的であり、現存が管理よりも深く働きかけ、教育的な関係こそが未来を築く場であると信じているからです。学校、職業訓練、霊的同伴に力を注ぐことは、より公正で連帯に満ちた社会の建設に貢献することを意味します。

4. 一つのカリスマの継承者であると自覚しているから
サレジオ会員が今の活動をしているのは、 聖ヨハネ・ボスコを通して聖霊が教会のうちに呼び起こしたカリスマを託されていると自覚しているからです。カリスマは過去の静的な記憶ではなく、さまざまな歴史的・文化的状況の中で現代化されることを求める、躍動する力です。
Don Bosco に忠実であるとは、青少年の新たな貧しさを創造的に読み解き、ふさわしい言葉を用い、デジタルの世界を含む新しい教育の場に身を置くことを意味します。忠実さは形の繰り返しにあるのではなく、原初の直観、すなわち青少年を愛し、彼らをキリストとの出会いへと導くことに一貫していることにあります。

5. 「良きキリスト者、誠実な市民」を育てたいと望んでいるから
この表現は、人間を全人的にとらえる見方を簡潔に表しています。サレジオ会の教育は、宗教的な次元と市民としての次元を切り離しません。「良きキリスト者」を育てるとは、自覚され生きられた信仰へと寄り添うことであり、「誠実な市民」を育てるとは、社会的責任、法の遵守、労働、連帯へと教育することです。
したがって、サレジオ会の事業の「なぜ」は、文化的・社会的なものでもあります。サレジオ会員は、社会の変革は良心の形成を通して実現すると確信しています。そのため、学校、大学、職業訓練、青少年司牧に力を注いでいるのです。

6. 喜びが可能であることを体験しているから
サレジオ会のカリスマのきわだった特徴は喜びです。表面的な喜びではなく、福音から生まれる喜びです。サレジオ会員が今の活動をしているのは、聖性が可能であることを体験し、それを現実的で魅力ある道として青少年に提案したいと望んでいるからです。
サレジオ会の教育環境は、しばしば「迎え入れる家、福音を告げる小教区、人生への準備をさせる学校、出会いのための中庭」と表現されますが、それはこの確信を表しています。信仰は人間性を貧しくするのではなく、完成させるのです。

 

結局のところ、サレジオ会員の「なぜ」は、招きへの応答です。彼らが今の活動をしているのは、神から青少年のもとへ遣わされていると感じているからであり、教育のもつ変革の力を信じているからであり、キリストの愛のしるしとする奉献を生きているからであり、続いていくカリスマの歴史の一部であると自覚しているからです。
どの事業も、どの取り組みも、どの計画も、ここにその究極の動機を見いだします。それは単に「良いことをする」ことではなく、青少年の世界のただ中で、神の愛のしるしとなり、その担い手となることなのです。